合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
No.2208, ワルツ「蒼い波」 作曲 : Q.ラッツァリーニ
○出典 Vita Mandolinistica, Anno 8-9, 1908
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者はロレートで生まれた作曲家、指揮者、オルガニスト。ペザロの音楽院でロベルト・アマデイ(アメデオ・アマデイの父)に師事した後、1886年からはボローニャ・フィラルモニカ音楽院で学び学位を取得した。同時期にはロレート吹奏楽団の指揮者も務めている。1887年からはマチェラータのサン・ジネージオ市吹奏楽団とアンコーナのオージモ市吹奏楽団の指揮、1890年から1904年にはマチェラータの聖フラヴィアーノ大聖堂の聖歌隊の指揮者やベニアミーノ・ジーリ(※1)吹奏楽団の指揮者としても活躍した。1905年以降はルチェーラ大聖堂の聖歌隊指揮者を務め、1924年以降長く故郷ロレートのサンタ・カーサ大聖堂のオルガニストと聖歌隊長の任に就いた。彼の妻はアメデオ・アマデイの妹でピアニストであったセシリアである。作品は吹奏楽作品の他、宗教曲やオペラなど多岐に渡るが、マンドリン楽曲は現在のところいずれも“Vita Mandolinistica”誌に掲載された“谷間のメロディ”等4曲しか判明していない。
本作はアメデオ・アマデイが監修を務めた時代の“Vita Mandolinistica”誌に掲載された小品である。穏やかな波がよせては返す様はアマデイの小品の柔らかなニュアンスに通じるものがあり、ラッツァリーニもまた独自なセンスを持ったメロディ・メーカーであった事が伺えるものである。本作の前に出版された「夜想曲」にはルチェーラ大聖堂のマエストロとの肩書が付されている。これまで知られていなかったが本作が掲載された“Vita Mandolinistica”誌の表紙は美しい「青」で彩られている。本誌はアメデオ・アマデイのご遺族から譲り受けたもので今回はその美しい表紙もお届けする。
※1べニアミーノ・ジーリは20世紀前半のイタリアを代表する最も偉大なテノール歌手の一人で、ラッツァリーニに師事した。元祖三大テノールと呼ばれたのはエンリコ・カルーソー、ベニアミーノ・ジーリ、ティート・スキーパの事を指したもので、ジーリはしばしば第二のカルーソーと呼ばれたが自身は第一のジーリとして知られる事を望んでいた。
No.2223, ヴィロッタ・マドリレーナ 作曲 : E.マンデルリ
○出典 Il Plettro, Anno26-6, 1932.06
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース、ティンパニ、小太鼓、カスタネット
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、コントラバス、ティンパニ、小太鼓、カスタネット
○パート譜 同上
作者は1891年4月にベルガモで生まれ、1970年3月ミラノに逝いた作曲家、指揮者。ミラノ音楽院に学んでいる間に第一次大戦に大尉として従軍、その後パルマ音楽院に戻り1920年に首席で卒業した。1923年から30年までベルガモのドニゼッティ音楽院で教鞭を取り、同地では聖マリア・マジョーレ教会の楽長も務めた。その後はミラノに移住しスカラ座で指揮者として活躍したが第二次大戦が始まると再び戦地に赴き作曲を中断せざるを得なかった。戦後はその職に戻ったとされる。作品は劇場作品、管弦楽、ピアノ曲、合唱曲などを残しており、管弦楽作品には組曲「聖フランチェスコの花」、交響的エピローグ「ミラ・ディ・コドラ」、「ピアノと管弦楽の為の幻想曲」、幻想曲「ラインの妖精」、吹奏楽の分野では「カルソ風夜曲」等があり、他に現在でもイタリアのカラーラ社からオルガン曲の「聖書組曲」「降誕祭の幻影」 など出版されている 。
本作イル・プレットロ誌で1932年6月に発表された小品。主幹であり「マンドリン界の救世主として親交の厚いA.ヴィツァーリ」に献呈されている。Villotaは北ヴェネート地方の古い民謡風舞曲とされる。またMadrilena はマドリッドのイタリア語読みでマドリッド出身の女性の事もそう呼ぶとされるが、本曲名が意味するところは正確にはわからなかったので識者に教えを請いたい。作者のもう一つのマンドリン作品「楽興の時」の宗教的静謐さとは正反対とも言える諧謔的な2拍子の舞曲風作品である。
No.2321, 間奏曲「愛の夢」 作曲 : G.マネンテ
○出典 De Mandolingids No.132 (1934.10)
○原編成 第一、第二マンドリン、第一、第二マンドラ(マンドロンチェロ)、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1868年2月カンパニア州のモルコーネに生まれ、1941年5月ローマに逝いたイタリア吹奏楽時代黄金期の中心人物と言える作曲家、指揮者、トランペット奏者。ソレントの楽団長であった父から最初の音楽教育を学びナポリ音楽院に進学、作曲とトランペットを学び、続いてマドリッドの音楽院でも学んだ。卒業後22歳の若さで歩兵得第60連隊軍楽長に就任、1898年のトリノ万博では 800 人以上で編成された吹奏楽団を指揮、各地を回った後1918 年に陸軍省から任命を受け、音楽隊を率いてニューヨーク、パリ、ロンドン、ブリュッセルと歴訪した。
作品は450 曲を超えるものがあり吹奏楽が圧倒的に多く、中でも行進曲は 100 曲以上を残している 。 マンドリン楽曲においては交響曲「マンドリン芸術」や「メリアの平原にて」 等の極めて重要作品や「詩人の瞑想」、「桂樹の下に」等ピアノ曲から移した美しい小品も残している。
本作はオランダのヒルフェルサムでJ.J.リスペットを版元として刊行された月刊誌(隔月の時期もあり)“De Mandolingids”(現地語の読み方ではデ・マンドリンヒッズに近い)に掲載された作品。同誌は1919年から発行され、確認できる最終出版年は1945年11月のNo.190と第二次大戦を経て発行され続けた異例の斯界誌で、戦後も1960年代まで発行が続いたようでNo.419までが見つかっている。当館には武井音楽文庫の他、山崎譜庫には同時に発行された別刷りの記事冊子も相当数収蔵されている。マネンテの作品としては同じオランダのHet Net Mandoline Orkest誌に掲載された滋味深い小品と並ぶ佳作で第2マンドラパートが設けられているのが珍しい。元曲は当時多くの作品が生まれたサロン編成の小管弦楽の為に書かれており、主旋律はチェロによって導入され木管楽器に引き渡される形式となっている。