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片岡道子様寄贈品のご紹介

この度当法人は片岡道子様、日本マンドリン連盟様と三者間で覚書を締結し、1968年に開催された「第一回 全日本マンドリン独奏コンクール(原題ママ)」にて第一位受賞にあたり授与された、栄えある入賞証、金牌、記念写真などの貴重品をご寄贈いただきました。

以下が第一位の副賞として授与されたもので、特に目を引くC.ムニエルの金牌は伊東尚生氏が中野二郎氏に相談の上、大垣市出身の高名な彫刻家中村輝氏に製作を依頼した彫像に、銅器職人の大洞弥兵衛氏が金製したものです。また入賞証には名だたる作曲家、演奏家、評論家各氏の名前が並んでいますが、劣化防止という配慮から高級な羊皮紙が使用されています。

マンドリン音楽資料館では今後これらを保管し、必要に応じ展示等を行なう予定です。

レリーフ賞状.JPG
ムニエル像金牌
ソロコン.png
詳説

  「第一回 全日本マンドリン独奏コンクール」は1966年春頃より、Frets誌発行者で岐阜M.O.を主宰する医師でギタリストの伊東尚生氏が開催について起案していた。その後各地への呼びかけで同年12月には全国から約40名が東京に集まり開催された「全国マンドリン指導者会議」(※1)でその案が提示され、1968年1月に岐阜での開催が決定された。Frets誌の伊東氏の記によれば1月に開催となったのは「学生にも社会人にも暇な時として選ばれた」とあるが、初の開催である事も踏まえ、出来る限り多くの愛好家の耳目を集めるという意図が伺える。

  このコンクールは日本マンドリン連盟が結成される約1年前の開催であり、その費用は全てを伊東尚生氏の私費で賄われた。伊東氏は実行委員長をつとめ、審査委員長には田中常彦、審査員に中野二郎、鈴木静一、服部正、鳥井諒二郎、高橋功、小西誠一の各氏という当時の斯界の頂点にいるマエストロが一同に会する錚々たる顔ぶれであった。

   課題曲はL.パパレロの"Bells of Night(夜の鐘)"とC.ムニエルの"20 studi melodici e progressivi. Op.216"から、"Movimento di Terze e Seste(三度と六度の練習曲)"が選ばれた。

  本コンクールには全国の指導者への丁寧な呼びかけの中から42名が応募意志を表し、31名がエントリー(3名欠席)、出場28名という大人数の出場者があった。午後から予選が行なわれ、選出された10名により本選で自由曲も演奏、約6時間でこれらを全て終える、おまけにスペシャルゲストで南谷氏が客演演奏という、今では考えられない程、大忙しの一日だった事が伺われる。

  片岡氏は本選の自由曲にR.カラーチェの第二前奏曲を選ばれ、予選から逆転、大差で見事第一位を勝ち得たとある。ちなみにFrets誌には審査員各位の講評が掲載され、厳しい意見が並ぶ中にも新たな試みへの希望を感じさせる喜びが読み取れる。

  本選後に宿泊先で行われたTea Partyには入賞者、審査員の他、指導者の大御所比留間きぬ子氏も登場し、100名近いメンバーで和やかに懇親が行なわれた様子がFrets誌に紹介されている。なお企画当初から、伊東氏を補佐して準備実務に携わった高橋三男氏による詳細な記録も大変貴重なものである。

   以降2023年までに独奏コンクールは計28回が開催され現在活躍する多くのマンドリニストを輩出しているが、第2回以降は日本マンドリン連盟(現・一般社団法人日本マンドリン連盟)の主催となった。

   なお、独奏コンクールの歴史についてはオザキ譜庫管理委員会様がすべてのパンフレット他資料を元に作成された『「回顧「日本マンドリン独奏コンクール」』~オザキ譜庫所蔵資料から見える"ソロコン"が辿って来た道~に詳しく掲載されている。

※1

開催当日、同会議は鳥井氏の呼びかけで全会一致で「第一回全日本マンドリンの群」と命名され、後の日本マンドリン連盟結成に向けた礎となった。元々「マンドリンの群」は1938年に旧O.S.T.の甲藤三千雄氏らが呼びかけてスタートした有志懇談会で、後に田中常彦、中野二郎、鳥井諒二郎各氏らも合流して全国30名以上の識者により活発に行われていたものである。

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