合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
No.2213, セレナータ・ブルレスカ 作曲 : J.スガッラーリ
○出典 Il Concerto, Album Premio Anno.8(1904)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1868年、モデナのスピランベルトで生まれた作曲家、演出家、指揮者、教育者。同地の市立音楽学校で学んだ後、1885年に海軍に入隊、ラ・スペツィアの王立艦隊音楽監督のフェデリーニ教授に師事し、和声と対位法を学んだ。その後G.レリチの楽団に参加し、マンドリン部門の監督を務めた。また1892年には最初のマンドリン誌である”Il Mandolino” にマズルカ”Fata Bruna"を招待作として発表した。同誌以外にも”Il Concerto”、” L'Armonia“、”Vita Mandolinistica”等に作品を発表し、マンドリン合奏の歴史上最初期の重要な作曲家の一人である。1897年にはイタリアを離れ、ベルギーに移住、ベルギーに於けるマンドリンの歴史の開拓者の一人となった。その他フランス、スイス、アルザス・ロレーヌ、ルクセンブルグ、オランダを歴訪し、数々の称賛を受けた後に、1903年イギリスに渡り、クリフォード・エセックスの協力者としてバンジョー、ギター、マンドリン部門の編集者の一人として力を注いだ。同地ではマンドリン普及の為の技術指導、編曲の他民族音楽舞踏劇団「リ・ゴンドレリ」の監督も務めた。
1905年にはイタリアに戻り”Il Concerto"の為に多くの作品を提供するが、当時P.シルヴェストリが彼を称えてこのように書いている。「スガッラーリの作品は真にボヘミア風で、ロンドン紳士の優雅な振る舞いが彼をロンドンに留めておかなかったら、きっとオーストラリア、日本、あるいは中国でさえ彼を呼び寄せていただろう」。この言葉は墓碑にも刻まれていると言う。晩年はモデナに帰り、同地で没した。
本作は1904年 “Il Concerto”の各年の代表作を収録した”Album Premio”に収録された作品で、ブリュッセルのマンドリン合奏団”La Mandolinata” を主宰したヘルマン・ジェラルドに献呈されており、作曲者名の肩書にも同楽団の名誉指揮者であることが記されている。また”Il Concerto"誌の第二回作曲コンクールの栄誉賞を受賞したとある。その他多くの作品が”Il Concerto”、”Il Mandolino”誌の作曲コンクールに入賞しており、本邦にも早くからもたらされ、武井音楽文庫にも多くが遺されている。ブルレスカとある通り、明瞭快活な中にも諧謔的でソロイスティックなフレーズが盛り込まれ、テンポも目まぐるしく変わり、頻繁に転調を盛り込むなど当時の作品としてはなかなか意欲的なものであったと考えられる。今回のスコアでは指番号とアップダウンの指定を省略したが、必要に応じ添付した原譜を参照されたい。
なお、原譜はA.アマデイ遺族が保管していた遺品の一つである。
No.2224, 幻想曲「春の祭」 作曲 : P.シルヴェストリ
○出典 Il Concerto, Anno4-18, 1900.9.30
○原編成 第一、第二マンドリン、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1871年5月、イタリアのモデナに生まれ1960年2月同地で没したギタリストで作曲家。若い頃からモデナの音楽家Ludovico Selmiに学び、後にScuola Comunale di Musica di ModenaでA. Bianchinに和声と対位法、ピアノを学んだ。主な作品は撥弦楽器に集中しており、モデナで50人規模のマンドリン合奏団"Circolo Mandolinistico Modenese"を創立し、1897年師のS.Aldrovandi亡き後"Il Concerto"誌の主幹に就任した他、1901年にはロディにおける国際マンドリンコンクールの会長に推されるなど斯界への貢献度は非常に大きなものがある。
後にファシストの一機関となるが、当初は広く大衆文化に貢献する組織として作られた L'Opera Nazionale Dopolavoro(O.N.D)の音楽部門のリーダーとしても活躍し、1933年の第一回の"Giornata Chitarristica Italiana(イタリアギターの日)"ではO.N.Dを代表して歓迎スピーチを披露するなどギター音楽界との繋がりも深く、1940年には"La Chitarra"誌にRomolo Ferrari(ロモロ・フェラーリ)への献呈作を発表し幅広い人脈を持った。コントラバスにも精通していたフェラーリはシルヴェストリのオーケストラのために1929年にモデナの"Ma setti"工房で重厚な質感を持った"Mandoloni"を考案し、デザインしている。
彼のオーケストラはモデナの劇場で多くのコンサートを開催したほか、パルマの"Teatro Regio" 、レッジョ・エミリアの"Teatro Ario sto"などの名門劇場でも演奏を行った。
マンドリン合奏における代表作のひとつ叙情曲「夏の庭」(1940年シエナのコンクールの入賞作品)の幽玄さは筆舌に尽くしがたい美しさをたたえた作品である。
子供たちの教育にも熱心で二人の息子レンゾとロリスは、父の意志を継ぎ、演奏家としてだけでなくローマのセント・チェチーリア音楽院の教授となり後進の育成に尽力した。一族の音楽的遺産の一部は、現在モデナのエステンセ大学図書館のシルヴェストリ基金に保存されている。
本作品はボローニャで発行されていたイル・コンチェルト誌で発表されたもので、もともと三重奏として掲載されたが中規模の楽団で弾いても聞き映えすると考えて今回取り上げた。シルヴェストリの作品の中でもこれは初期のもので、武井音楽文庫からよい状態で第3版の楽譜が発見されている。冒頭には上記にある愛するロベルト、ビアンカ、レンゾへと記されている。自由な形式で書かれ、ギターの伴奏音形の美しさはいかにもシルヴェストリらしい。
No.2302, 序曲「フリデスカ」 作曲 : Sim C.スミッツ
出典 “HET NED. MANDOLINE ORKEST“, 1927年1月
原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
パート譜 同上
第1号に続き“HET NED. MANDOLINE ORKEST“からもう一曲。こちらも作者については不明である。
ところでオランダにはこの“HET NED. MANDOLINE ORKEST“誌以外に”De Mandolingids”(マンドリン・ガイド)がある。こちらはヒルフェルサムで発行されており、楽譜以外に毎回十数ページの評論や演奏会批評が掲載されている。ちなみに“HET NED. MANDOLINE ORKEST“誌の巻号にあたる部分に書かれたBijlageという単語は「付録」という意味になる為、本当は同誌にも評論などの記事のページがあったのかもしれない。どちらの誌もマンドロンチェロを含む楽曲が多いのが特徴である。
オランダマンドリン協会のWEBページによれば、オランダにおけるマンドリンオーケストラは1900年頃から組織され始めたとあり、楽器は比較的安価で、特に当時台頭していた労働者の青年クラブでは、マンドリンやギターと一緒に演奏することに大きな関心が持たれていた。フルオーケストラの演奏会にいくのは上流階級の人々で、市民が親しめる楽器としてマンドリンが普及していく中でJ.B.コックがそのレパートリーの開拓の先駆者であったとされている。奏者の人口が増えるに従い、マンドリンオーケストラのための作曲が増えたがロマン派や民俗学的な性格のものが多く、奏者層の為か野心的なものはなかったという。
本作のタイトルとなっている「フリデスカ」についてはオランダ語でも他の欧州系言語でも特に意味を持った単語ではなく、地名でもない。タイトルに下向きのダブルクォーテーションがついている事の意味も不明である。
曲はシンプルで簡易な手法で書かれているが、頻繁にテンポや音量が変化し、単調さを補っている。表情豊かに演奏される事で魅力を発揮する作品だと思われる。
曲中に書かれた herhalen van A tot B zonder herhaling, en overgaan op Cは、「AからBまでリピートせずに繰り返し、Cに移動」という意味となる。
No.2209, 舟歌「青春」 作曲 : M.ヴィカーリ
○出典 Mandolinismo, Anno03-N.33, 191
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1879年スイス南部のルガーノに生まれ、11歳の頃に同地のサンカルロ教会のオルガンを弾いて神童と騒がれたという。その後彼はチューリッヒの音楽学校でK.ヴェニヒに学び、合唱指揮とオルガンの勉強に励んだ。卒業後は故郷ルガーノに戻り、チューリッヒ音楽院の支部の監督となった。そのかたわら、サン・ロレンツォ大会堂のオルガン奏者として、また父と一緒に設立した合唱団サンタ・チェチーリアの指揮者として、さらにはC.ノタリによりC.コレッタ主幹のもとにルジンゲンで出版されたマンドリン研究誌“Mandolinismo”の協力者として参加、後にコレッタの後任となり多彩な活動をくりひろげた。
彼の名声を確立したのは、何よりもその作曲活動であった。混声合唱とオーケストラのためのミサ曲や、男声合唱とオルガンならびにオーケストラのためのレクイエムなど著名な作品が彼の手になった。民衆音楽の領域では、この地域のティチーノ地方の方言詩人たちの歌詞を使った一連の混声合唱曲や童謡の作曲など多民族文化のスイス地方においてイタリア語圏の独特な文化を高めた。さらにはマンドリンや吹奏楽のためのいくつかの作品も作っている。斯界の作曲家としては97歳と異例の長寿を全うした。
本作品は”Mandolinismo”誌の1932年の第一回作曲コンクールで一等を受賞した作品で、舟歌の副題の通り、6/8拍子の緩やかなリズム上で低声部が波間をたゆたうような単純なリズムを繰り返しながら、その上に幻想的な旋律が歌われる。非常にシンプルだがメロディメーカーとしての作者の天賦の才が発揮された小品といえよう。取り上げられる事の少ない作曲家ながら、他に夕べの静寂を描いた「四月の月」や合唱曲「落葉」等いずれも洗練された旋律美に溢れる作品が多い為、今後も作品を紹介していきたい。