合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
No.2304, 序曲「芸術と労働」作曲 : I.ビテッリ
○出典 Mandolinismo, Anno.10 No.199, 1930
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、(チューブラーベル)
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ、チューブラーベル
○パート譜 同上
作者については180曲以上のマンドリン合奏作品を残していながら、生年が判然とせず没年はわかっているもののその生涯については多くの事はわかっておらず、1923年のMandolinismo誌に簡単な経歴が掲載されており「既に有名なこの作曲家は紹介するまでもないだろう。15年以上に渡って、遠く離れたアメリカにさえ多くの支持を得ている弦楽四重奏団の創設者である事は言うまでもない。バンドの監督であると同時にロマーニャ地方で最高と評判のビテッリ楽団の指揮者でもある。」と記されている程度である。1940年、41年にシエナで開かれたO.N.D.( Opera Nazionale del Dopolavoro ファシスト党が組織した、労働後の余暇活動を支援するための地方委員会として作られた組織で体制を維持する上での制御組織)の作曲コンクールでメヌエット「中世の城」と「太鼓手の巡邏」が入賞している。作品の殆どは”Il Mandolino”と”Il Concerto”に掲載されており、特に”Il Concerto”では終巻の時期は半数以上が彼の作品で占められている。日本では1922年の”Il Mandolino”誌で発表された序曲「サン・ジュスト」が有名で、”Il Mandolino”誌は戦前は萩原廣吉が神戸で営んでいたプレットロ楽譜店や共益商社(楽器部門は後のヤマハ銀座店となった)などを通じて流通し、戦後は昭和25年に大阪で店を構えたササヤ書店等で容易に入手出来たことから多くの愛好家に知られている。
本作は同じ“Mandolinismo”誌から当初「クレムリン」のタイトルで1923年に出版されたものとほぼ同じ内容の作品であるが、1923年と1930年という短期間に改題して再度「曰くありげな」題名で掲載した経緯は不明ながら、単なる刷り直しではなく、版を起こし直している事から何か事情があったのだろう。
“Mandolinismo”という雑誌を発行していたのがルジンゲンというスイスの中でも比較的フランスやドイツに近い土地柄も影響していたかもしれず、"ARTE E LAVORO"といういかにもファシスト党やO.N.D.が好みそうなタイトルに変更して発表しなおしたという点には、時局を考慮した何かしらの意図があった可能性も有る。
No.2216, アヒルのフォックストロット 作曲 : U.ボッタッキアリ
○出典 A.フォルリヴェージ
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1879年3月にマチェラータのカステルライモンドで生まれ、1944年3月コモに逝いた作曲家、指揮者。名家に生まれ工業学校を出たが、16歳で既に生地への讃歌として行進曲「カステルライモンド」を作曲、天性の音楽的才能をもって18歳でペザロのロッシーニ音楽院に入学、P.マスカーニに和声とフーガを師事した。在学中から数々のコンクールに入賞した他、20歳で書いた歌劇「影」はマチェラータのロッシ劇場で初演され大成功を収めた。マンドリンの為にも多くの作品を残しており、中でも1905年U.M.Lの作曲コンクールで第1位の文部省大銀牌を受賞した交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」、1910年の“Il Plettro”の第3回作曲コンクールで第1位を受賞したロマン的幻想曲「誓い」や「交響的前奏曲」、1941年にシエナで開催されたコンクールで第1位を受賞した瞑想曲「夢の魅惑」などはいずれも斯界の至宝的存在となっている。
本作は1923年8月“Il Concerto”誌第617号に掲載された作品で、親しい友人のルイジ・グァリスコに献呈されたもの。フォックストロットは1900年代初期にニューヨークのボードビリアン、ハリー・フォックスが披露して有名になった4/4または2/2の社交ダンスの形式である。中庸なテンポとリズムで1910年代にアメリカで大流行し、第一次大戦後にヨーロッパにももたらされた事もあり、マンドリン作品にも多くのフォックストロットが存在する。冒頭から鮮烈に奏でられるアヒルの主題がシンコペーションであることもあり、ぎこちないヨチヨチ歩きを連想させる。その他にも躓きながら一生懸命歩く様子やみんなで河に飛び込む仕種などが描写される。作者の作品は重厚な大作を演奏する事が多いが、このような魅力的な小品も数多くある。本邦でも1920年代から演奏がなされており、大正モダンのマンドリン弾き達が楽しそうに演奏する様子が目に浮かぶ。
No.2311, 無言歌 作曲 : C.A.ブラッコ
○出典 A.フォルリヴェージ
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者はイタリアのマンドリニスト、ヴァイオリニスト、指揮者で作曲家。アマチュア管弦楽団、吹奏楽団やジェノヴァのマンドリン合奏団などで指揮者をつとめた他、1902年の”Il Mandolino”誌による第6回作曲コンクールにおいて「マンドリンの群」が金牌を得て、6月に同誌に掲載されると、各地の合奏団から好評を博し、レパートリーとして定着していった。”Il Mandolino”誌には1895年から作品を発表している。
作者について生年没年はおろか、そのフルネームさえも判然としないまま長い時間が過ぎていたが、1990年代に石村隆行氏が在伊中に”Il Mandolino”1905年2号初版に作者の訃報記事を発見し、生年と没年が判明、2019年にカルロ・アオンツォ氏が調査の結果、公文書によりフルネームと正確な没日が判明した。それらによれば作者は1860年にピエモンテ州ビエッラに生まれ、1905年1月22日にジェノヴァに逝いた作曲家である事が判明している。
本作はフォルリヴェージからパート譜として刊行されているが発行年は不明。出版時の編成はピアノ伴奏またはギター伴奏の二種のパターンでマンドリンとの二重奏からマンドロンチェロ、リュートまで含む六部合奏まで多様な版が存在した。同社の創設者でもある作曲家G.ベルレンギに献呈されている。今回はマンドロンチェロを含む五重奏版にマンドローネ(コントラバス)パートのみ加筆している。
また、本作は1923年に武井守成の提唱で開催されたシンフォニア・マンドリニ・オルケトラ(S.M.O.)主催の第一回全国マンドリン合奏団コンコルソの課題曲として選ばれている。何故本作がこのコンコルソの課題曲として選定されたかについては、「マンドリンとギター」誌に掲載された記事の中には見つける事が出来なかった。S.M.Oは1918年に本作を定期演奏会で演奏しており、武井は「今回は此人の最幽艶な旋律を御紹介しやうと思ひます。之は作品第八十四で彼の雄健な小交響楽「マンドリンの群」を耳にした人に取っては之が同一作曲家の手に成ったものか如何かを疑はしむる程美しい心地よい曲です。各パートの使用の飽くまで巧みな虚に何時もながら感嘆を禁じ得ません。」と評している。
なお、このコンコルソにおいて課題曲は五部の編成であった事から、中野譜庫に残されている手書きの総譜はその時に参加団体に対して配布されたものである可能性を考えておきたい。ちなみに市毛譜庫内には本コンコルソに参加した斎藤秀雄率いるオーケストラ・エトワールが往事に使用したと思われる本曲の手書きパート譜が残されている。