合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
No.2215, ペンギンのガヴォット 作曲 : A.キリコ
○出典 “Il Plettro“, Anno31-01, 1937年1月
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者については各種音楽事典や文献、膨大な情報量を誇るTreccani.it(イタリア学術・文字・芸術百科事典)にも掲載がなく詳細は不明である。また”Il Plettro”誌では本作発表の後にMario Chiricoという作曲家が登場するがその関係も不明である。同誌への登場も本曲1曲のみとなっている。主筆のA.ヴィッツァーリは本紙記事の中で本作品について「一年の始まりにとても興味深い作品をお届けします。」と添えている。本作品はパート譜しか掲載されず総譜がない事も手伝って本邦ではこれまで殆ど演奏の機会がなかった作品ではないかと思われる。大変描写的で愛らしい作品となっている。
No.2305, 軍隊幻想曲 作曲 : A.フェレッティ
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Sérénade au Camp. 宿営地のセレナーデ
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Départ du Résiment. 連隊の出発
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La lettre de la payse. 故郷からの手紙
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Retour à la caserne. 兵舎への帰還
○出典 L'Estudiantina, 10 Année-185,186, (1914)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、コントラバス、(スネアドラム,アドリブ)
○パート譜 同上
作者は1884年9月イタリア中部のモリーゼ州モンテロドゥーニで生まれた作曲家、木管楽器奏者。没年はハッキリしていない。地元の音楽学校でニコラ・トレヴィソンノとルイジ・ルカントニオに学んだ後、1900年にアメリカに渡り、フルート及びピッコロ奏者としてフィラデルフィアとワシントンの楽団で活躍した。1903年に帰国し、独学でクラリネット、和声法を習得した。その後木管楽器のアンサンブルを中心とした作品から、ピアノ、吹奏楽など様々なジャンルの作品を発表した。マンドリン楽曲は1910年からVita Mandolinistica誌を始め、Il Concerto、Alte Mandolinistica、Mandolinismo、L’Estudiantina等著名な音楽誌に広く楽曲を提供している。1911,12年には吹奏楽界の巨匠ティート・ベラティが創設した楽器工房発刊の音楽新聞による器楽作曲コンクールにマンドリンとギターの為の三重奏で入賞する等、異色の経歴の持ち主である。
本作は1914年にフランスのL’Estudiantina誌で2号に渡って掲載された4章からなる組曲様の作品。第一次大戦期と重なるが、それよりも前に書かれた作品と思われ、タイトルから連想されるような物々しさは無く、むしろ田舎の連隊宿営地からの故郷を思うノスタルジックな風景が伺える。
1楽章冒頭に書かれたavee le médiatorは意味としてはwith the pickとなり、表情記号ではなく奏法指示についてと捉えると、ギターに対する指示でとないかと思われる。
2楽章の行進曲も緊張感に満ちたものではなくむしろ長閑な訓練に出かけるかのようである。今回作成した楽譜の128小節目から143小節目はオリジナルではフランス語で「C(128小節)からD(143小節)へ減衰しながら、連隊が遠ざかっていくのを模倣する」という内容の注記が書かれている。また結尾部に書かれたセンテンスは仏語に疎い為解釈が難しいが「一定のリズムの摺り足で、徐々に遠ざかる」というような意味が考えられる。仏語の達人に意見を求めたい。
3楽章は起床のラッパのような経過句を経て、緩やかなアンダンテが奏でられ、故郷からの手紙に思いを馳せる緩徐楽章。
4楽章になると高らかにファンファーレが鳴り響き途端に元気が出てきたようだ。ギターには「3本の弦を交差させて(実際には5.6弦を交差するだけで充分と思われる)ドラムを模し、それ以外は3コード進行で(この場合はG)」と書き込みがある。(今回はスネアドラムのパートも作ってある)。しまいには18世紀~20世紀初頭の軍事行進で口ずさまれた流行歌「Auprès de ma blonde(金髪の隣で)」のサビの部分を歌いながら、愛する彼女が待つ家にすっとんで帰る、という愉快な結末を迎える。
ちなみにこの曲は1704年にイギリス海軍中尉アンドレ・ジュベール・ド・コレットがオランダでの監禁捕虜生活の中で妻を思って書いたとされ、解放にあたり身代金を払ってくれたルイ14世に御礼として送ったものと伝わっている(諸説あり)。この部分を直訳すると「僕の金髪娘のそばで眠るのは最高だ」といったところであるが、実は単純な軍隊歌とも言えない長い歌詞を持ち(なんと歌詞は11番まであり、この部分は11回繰り返される)、その解釈は様々である。Youtubeでも様々に歌われているのでぜひ参照してほしい。
No.2221, 子守歌「月夜」 作曲 : I.A.フィリオリーニ
○出典 Il Concerto, Anno28-23/No.673, 1925.12.15
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は、1878年8月24日、ピエモンテ州ヴェルチェッリに生まれ、1955年7月23日、同地に逝いた作曲家・ヴァイオリニストでニコラ・ラヴァッツァーニ及びアンドレア・ラニーノに師事した。1923年から1935年まで、ヴェルチェッリのヴィオッティ音楽院で、指揮と弦楽器の教授を務めた。ヴァイオリン・チェロ・ピアノの為の”Verbe et Voce”は1951年同音楽院の国際コンクールに入賞している。彼は署名時にI.Angero Figlioliniと書いていたが、これはIsidoroという名を嫌っての事だったそうである。早くからマンドリン音楽にも関わっており、特に1907年に”Il Concerto”誌で行われたカルロ・ムニエルを中心とした論戦に若干29歳にして関わっていたことは有名である。彼のマンドリン音楽への貢献は少なからざるもので、間奏曲「古城の物語」を始めとした合奏曲、独奏曲を発表、また門下生を中心とした合奏団Complesso a plettro”Figliolini”を組織しヴェルチェッリやビエラを中心に演奏活動を行った他、ハープも演奏し、アコーディオンも教えていたらしい。作品の多くはボローニヤの”Il Concerto”誌とトリノの”Il Mandolino”誌で発表され、多くの作曲コンクールで受賞している。
フィリオリーニは一男一女をもうけ、長男エルマンノは若い頃からトリノやミラノで美術を学び、モディリアーニやマティスの研究と共に自身の作品を多数発表し、画家として名をなした後1985年に亡くなったが、石村隆行氏は在伊中に健在であった長女のラウラを訪ねて、作品を贈られている。なおフィリオリーニが終生を過ごしたヴェルチェッリの街には個人の遺徳を長く偲ぶ為、フィリオリーニの名を冠した通りが設けられている。
本作は長女のラウラに献呈された子守歌で、浪漫的な和声に彩られた小品で大変愛らしい作品である。