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合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
leduc
No.2417,  東洋巡邏   作曲 : E.レデュック

○出典 J.J.Lispet(De Mandolinegids) L.314

○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター

○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ

○パート譜 同上

 

作者については各種辞典類を調査したが、経歴はおろか、その名すら見出すことができなかった。Leducという名の音楽家としては、1804年生まれで音楽出版社を営んだアルフォンス・ルデュックとその一族がよく知られているが、調べた限りでは、本作の作者とのつながりを確認することはできなかった。

しかし、「オランダ放送音楽財団」(SOM)のアーカイヴには、ルデュック名義の作品や編曲が多数残されており、《トロイカ・ファンタジー》やや《日本庭園にて》、《日本の昔話》といった興味深いタイトルの作品が並んでいる。これらの作品や楽譜表紙の記載から、主として放送用音楽や教育・娯楽音楽の分野で活動した人物ではないかと考えられる。

 

本作についても、同財団のアーカイヴに手書きの原曲総譜が残されている。表紙には《Patrouille Orientale》と「E. Leduc」、総譜冒頭には「Ernest Leduc」と記されており、作者のフルネームを確認できる重要な資料となっている。原曲の編成は、バンジョー2部、バンジョリン、ギター、バス・バンジョー、ピアノ、チェレスタ、アコーディオンという、きわめて特色あるものである。

 

オランダでは第一次世界大戦後、NCRV(オランダ・キリスト教ラジオ協会)、KRO(カトリック・ラジオ放送協会)、AVRO(一般ラジオ放送協会)、VARA(労働者ラジオ・アマチュア協会)などの放送団体が相次いで創設され、教育・娯楽・宗教などの多様な番組のために数多くの音楽が制作された。特にラジオドラマや子ども向け番組では、伝統的なクラシック音楽の編成にとらわれず、軽音楽的あるいは効果音的な響きを得るため、多様な楽器の組み合わせが用いられている。本作の原曲編成も、そうしたオランダの初期放送音楽文化を反映したものと考えられる。

 

このマンドリン合奏版は、1919年からオランダのヒルフェルスムで出版活動を行ったJ. J. リスペット社によるDe Mandolinegids誌のプレート番号L.314に当たるという。ただし、今回使用した楽譜の表紙にはDe Mandolinegidsの誌名はなく、ヴェッセル・デッカー編集による「マンドリン・アンサンブルのための放送厳選曲集」と記されている。

ヴェッセル・デッカーは、マンドリン・オーケストラ「Mandolinata」やバンジョー・オーケストラ「Estrelita」を指揮したオランダの作曲家で、De Mandolinegids誌にも作品を発表している。同誌は1938年発行の第153号までは刊行年が判明しているが、それ以後の作品については出版年が明らかでないものも多く、本作も正確な刊年は不明である。プレート番号や楽譜の体裁などから、おそらく1930年代中頃の出版ではないかと推測される。

題名の《Patrouille Orientale》は、直訳すれば「東洋の巡邏」あるいは「東洋風パトロール」となる。ただし、ここでいう「東洋」は、イタリアやフランスの異国趣味的作品にしばしば見られる中東や西アジアではなく、当時のオランダにとって最も身近な「東洋」であったオランダ領東インド、すなわち現在のインドネシアを指すものと考えられる。

1910~30年代のオランダでは、ジャワ島を中心とするオランダ領東インドが、政治・経済のみならず、文学や絵画、舞台芸術、娯楽文化においても、海外に向けられた最大の関心事の一つとなっていた。バティック、ガムラン、熱帯の風景、現地の民族文化などが「東洋らしさ」を表す題材として盛んに紹介されており、本作もそうした植民地文化を背景とする異国趣味的作品の一つと位置づけることができるだろう。

もっとも、本作がインドネシアの伝統音楽を直接引用しているわけではなく、その音楽語法はあくまでヨーロッパの軽音楽の範囲にある。しかし、優艶な節回しを持つ旋律と独特の色彩感は、同時代の一般的なマンドリン合奏曲のなかでもひときわ異彩を放っている。放送音楽としての特色ある原曲編成と、当時のオランダにおける「東洋」への関心が交差した作品として興味深く、今回取り上げることとした。

No.2418, ガヴォット「魅惑的な王子様」
作曲 : L.シャサン・ド・ラ・プラス
charmant

○出典 Il Plettro, Anno7-No.15,16(1912)

○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター

○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ

○パート譜 同上

 

作者は1842年にフランスのロアンヌに生まれ、1921年に同地で逝いた作曲家、音楽家、歴史家である。フランス国立図書館には作曲家として多数の作品が登録されている。また、フォレ地方の歴史・考古学協会「ラ・ディアナ」の会長を1908年から1919年まで務めた。同協会はモンブリゾンを本拠とし、図書館、文書資料館および考古学博物館を運営して、地域の歴史的・文化的遺産の保存と研究に携わっている。

作品にはピアノ曲が多いが、マンドリン楽曲も十数曲が確認されている。その多くは1910年から1913年にかけて、パリのRowies社が発行した音楽誌Le Médiatorに掲載された。

 

本作は、1911年8月に公示され、翌1912年1月に応募が締め切られたIl Plettro誌主催の第4回国際作曲コンクールにおいて、カテゴリーD「四部合奏のためのガヴォット、前奏曲、メヌエット等」の部で第2等に入賞した作品である。応募時に用いられたモットーは、「忍耐」を意味する “Perseveranza” であった。

作品は同誌の1912年第15・16号に掲載され、好評を得たためか、翌1913年にはA.フェラーリの編曲による二台のギター版も同誌に掲載された。この第4回コンクールからは、A.カッペルレッティの《劇的序曲》、S.ファルボの《序曲ニ短調》、N.ラヴダスの《ギリシャ風狂詩曲》など、多くの優れた作品が生み出されており、マンドリン合奏音楽の歴史においても、ひときわ輝かしい時代であったといえる。

個性的で主張の強い同年の入賞作品のなかにあって、本作は古典的な手法によって端正にまとめられ、格調の高さと、控えめながらも印象深い旋律美が際立っている。同じカテゴリーDで第1等に入賞したG.カーリのガヴォット《愛撫》とともに、改めて評価されるべき小品であろう。

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No.2419,  エレジー    作曲 : J.B.コック

○出典 Barend van Zwieten(1924)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上

 

作者は1889年にアムステルダムに生まれ、1959年に逝いたとされるヴァイオリニスト、マンドリン奏者、作曲家、指揮者、音楽指導者で、20世紀前半のオランダにおけるマンドリン音楽の普及に大きく尽力した人物である。

正規の音楽教育を受けてヴァイオリニストとして活動する一方、ギターやマンドリンにも親しみ、1910年代後半からマンドリン・アンサンブルのための作品を作曲するようになった。詳しい経緯は不明だが、初期の小品がアムステルダムの出版社ザイフェルトの目に留まり、作品集として出版されると好評を博した。翌年にはさらに5冊の作品集が刊行されたとされ、比較的短期間のうちにマンドリン作曲家としての地位を築いたものとみられる。

奏者としてはマンドリン楽界のみに留まらず、オランダの現代音楽とも接点を持っていたとされる。1918年に作曲されたダニエル・ルイネマンの《Hiëroglyphen(ヒエログリフ)》では、マンドリン奏者として初演に参加したとの記録がある。同作は3本のフルート、チェレスタ、ハープ、ピアノ、カップベル、2台のマンドリン、2台のギターという異例の編成を持つ作品で、コックが当時の実験的な音楽にも関わっていたことを示す興味深い事例である。また、ウィレム・メンゲルベルク指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団にエキストラ奏者として参加し、マーラーの《交響曲第8番》などを演奏したとも伝えられているが、参加した公演の詳細については、なお確認を要する。

1919年、ヒルフェルサムのJ.J.リスペット社が、オランダ最初のマンドリン専門誌とされる De Mandolinegids を創刊すると、コックは依頼を受け、マンドリン合奏コンクールの課題曲を作曲した。これを契機として活動の中心をマンドリン音楽へと移し、以後、同誌を主要な発表の場として数多くの合奏作品を発表した。また、同誌に関連して行われた合奏コンクールでは、長年にわたって審査員も務めている。

De Mandolinegids はJ.J.リスペット社によって編集・発行されたが、付録楽譜の版権は、アルフェン・アーン・デン・レインにあったバーレント・ファン・ツヴィーテン社が保有していたとされる。このため、雑誌の発行元と楽譜の出版元が異なるという、やや複雑な出版形態を取っていた。

1920年頃には、アムステルダムのCor B. Smit楽器店から、全2巻の教則本《Populaire Mandoline School》を刊行したとされる。コックは作曲活動の早い段階から演奏教育にも取り組んでおり、作品の提供だけでなく、奏者や指導者の育成にも力を注いでいた。

1926年に創刊された Het Ned Mandoline-Orkest 誌にも創刊時から関わり、多くの作品を発表した。同誌はオランダのマンドリン団体の機関誌として刊行されたもので、コックは作曲家、指揮者、指導者としてその発展に尽力した。こうした活動を通じて、単に作品を提供するだけでなく、演奏指導や合奏団運営を含め、オランダのマンドリン界を組織的に支える役割を担ったものと考えられる。

1930年には、一般に「オランダ放送マンドリン・オーケストラ」または「ラジオ・マンドリン・オーケストラ」と呼ばれる合奏団を設立し、その指揮者となった。同楽団は150回を超える演奏を行い、その多くがヒルフェルサムのラジオ局から放送されたとされる。当時の番組資料にも、コックの指揮するマンドリン・アンサンブルの放送記録が確認されている。

また同じ頃には、マンドリン・オーケストラの指揮者を養成するための講習課程も設けたとされる。放送楽団の運営と指導者育成に力を注ぐようになったことで、活動の重点は次第に作曲から、指揮、教育、楽団運営へと移っていったものとみられる。

1940年代には、アペルドールンのXYZ社から『新マンドリン教室』De Nieuwe Mandoline-School を刊行した。同書は約100頁からなり、その後も版を重ねたとされる。さらに、マンドリン奏者や合奏団のための指導書も著しており、第二次世界大戦の前後を通じて演奏教育と合奏活動の発展に尽力した。戦後間もない時期には、Gids voor Mandoline en Guitar 誌の再興にも関わったという。

姓名については、当時の出版譜や雑誌記事、放送資料では、主に Joh. B. Kok または Johann B. Kok と表記されている。本作の出版譜にも Joh. B. Kok と記されている。
南谷博一『マンドリン辞典』には Johann Babtest Kok と記載されているが、現時点で確認できる同時代資料には、ミドルネームをBabtestと展開した例は見当たらない。本稿では出版譜の表記に従ってJohann B. Kokとした。なお、「B.」が何の略であるかについても、現在のところ確実な根拠は確認できていない。

本作は1924年、バーレント・ファン・ツヴィーテン社から単独作品として出版された。作品番号は95であり、コックの創作活動の中期に属する作品と考えられる。

題名は「エレジー」であるが、強い悲愴感を前面に押し出した作品ではなく、穏やかで美しい旋律線を持つ佳曲である。過ぎ去った日々や思い出を静かに懐かしむような、温かな追憶の情感をたたえている。

構成は簡潔で、旋律も一見すると素朴であるが、主旋律の呼吸、内声の受け渡し、和声の移り変わりが丁寧に書かれている。各声部は無理のない音域に置かれ、主旋律と伴奏の均衡もよい。小編成で演奏すれば室内楽的な繊細さが際立ち、大編成では豊かな響きと静かな広がりを得ることができるため、編成規模を問わず演奏効果を上げやすい作品である。

譜面には、フランス語による Suivez.(シュイヴェ) という指示が記されている。これは「従って」という意味で、伴奏声部に対し、主旋律のテンポや呼吸、微妙な揺れに合わせて演奏するよう求める指示と解釈できる。マンドリン合奏曲では比較的珍しく、速度や強弱だけでなく、旋律の歌い回しにまで細かな注意を求めている点は注目される。

終結部では、次第に音量を落としながらテンポを緩め、最後は perdendosi、すなわち「消え入るように」閉じられる。派手な技巧や大きな劇的展開を持つ作品ではないが、旋律を長い呼吸で歌い、内声とギターの和声を丁寧に扱えば、深い余韻を生み出す。演奏会の抒情的な小品として、また追悼や回想を主題とする場面にも適しており、現在さらに演奏されてもよい作品の一つであろう。

なお、表紙には、コック著のハワイアン・ギター教則本と「Esercizio」と称する一組の商品を、すべてのギター奏者に勧める文言が記されている。「Esercizio Edition」は本譜にも表示されたバーレント・ファン・ツヴィーテン社の出版ブランドとみられることから、これは本作の演奏指示ではなく、同社が扱う教則本や関連商品の広告と考えられる。ただし、garnituur “Esercizio” が具体的に何を指すかは明らかでない。

No.2420,  スケルツォ「水しぶきと飛沫」
作曲 : S.サルヴェッティ
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○出典 Mandolinismo - Anno.4 Numero 73 (1924)

○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ

○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ

○パート譜 同上

 

作者は1870年1月にロンバルディア州ブレノに生まれた作曲家、ピアニスト、指揮者。パルマとミラノの音楽院で作曲、オルガン、ピアノを学んだ。卒業後は主に鍵盤楽器奏者や吹奏楽指揮者としてカモニカ渓谷(世界遺産のヴァル・カモニカの岩絵群で有名)で著名な音楽家で、エシーネ、ブレノ、ダルフォ各地の楽団の指揮を務め、ブレノではマンドリンオーケストラを創設したが、地位や収入に拘らない生き方は「ボヘミアン」として地元で大いに尊敬を集めた。終生、地に根付いた暮らしを続け、1932年カモニカ渓谷の中心区であるダルフォ・ボアーリオ・テルメで亡くなったが、生家は記念館となり今でもカモニカの人々に愛されている。

作品には吹奏楽曲、ピアノ曲などもあるが、特に作者が力を注いだのがマンドリンを中心とする撥弦楽作品で、現在までに約100曲が確認されている。その編成はマンドリンとギターの二重奏から、三重奏、四重奏、五重奏、マンドリンオーケストラにまで及ぶ。1905年には間奏曲《Mormorio del mare(海のささやき)》がIl Mandolino誌のコンクールで第1位となり、金メダルを受賞した。作品はそのほかIl Concerto、Il Plettro、Mandolinismoなど、当時を代表するマンドリン音楽誌から多数出版されている。

2008年9月にはブレノでサルヴェッティを主題とする研究集会が開催され、多くの研究者、指導者、演奏家によって、その生涯と作品についての報告と演奏が行われた。その成果はウーゴ・オルランディ編の研究報告書としてまとめられ、作品を収録した2枚のCDとともにEufonia社から刊行されている。

本作はスイスのルジンゲンで発行されていたMandolinismoから出版された作品で、比較的穏やかな作品の多い作者としては遊び心に溢れた一作で冒頭に“Allegro giusto alla furlana”と記載されているが、“furlana(フルラーナ)”とはイタリアのフリウーリで生まれた、急速なリズムの伝統的な舞踊音楽で、17世紀末から18世紀初頭にかけてフランスにも伝えられ、アンドレ・カンプラらによって舞台作品や宮廷舞踊に取り入れられた。本作の in due mov. は、6拍子を細かく六つに数えるのではなく、大きく二拍に捉えて演奏することを示している。

題名の Sprizzi e Spruzzi は、いずれも液体が細かく飛び散る様子を表す語であり、意味を厳密に分けるというより、似た響きの言葉を重ねた軽妙な言葉遊びとみられる。細かな音型が各声部を飛び交い、水しぶきが次々とはじけるような快活さを備えた楽曲である。スタッカートとレガートを明確に弾き分け、トリオに現れる sotto voce の密やかな表情との対照を大胆につけることで、作品の機知と躍動感がいっそう効果的に引き出されるだろう。

No.2421,  タンゴ「月なき夜」
作曲 : A.ベッティネッリ 編曲 : A.モルラッキ
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○出典 Mandolinista Italiano – N.278 (1927)

○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ

○スコア テノール(ソプラノ)、第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ、

○パート譜 同上

 

作者は1878年8月(6月説もあり)イタリアのトレヴィーリオに生まれ、1953年2月ミラノに逝いた作曲家、歌唱指導者。ミラノの音楽院に学びスカラ座など多くの歌劇場で副指揮者を務めたが、のちには作曲と歌唱指導を活動の中心とした。作品には歌劇と歌曲が多く、「冬のセレナーデ」「月のファンタジー」「5月の夕べ」などは大きな反響を呼んだという。

 

本曲は1926年に出版されたベッティネッリのピアノ伴奏歌曲をA.モルラッキがマンドリン四部合奏に編曲し、1927年にミラノのMandolinista Italiano誌で発表したものである。日本でもタンゴの代表的なマンドリン合奏曲として、戦前から広く演奏されてきた。

マンドリン合奏のみでも充分に楽しめる作品であるが、今回は前述の原曲歌曲に基づく歌詞を付した。機会があれば、ぜひ歌を交えて演奏していただきたい。器楽のみの場合とは曲の印象が大きく変わり、その抒情性がいっそう鮮明になると思う。なお、原曲とモルラッキ編ではアーティキュレーションが異なる箇所があるが、今回はモルラッキ編に準拠している。また、モルラッキ編、中野二郎低音加筆による六部編成の版もあり、こちらはイタリア マンドリン百曲選第14巻(1971)に収録されている。

原曲は、スペインの名テノール、ミゲル・フレータに献呈されている。フレータは、プッチーニの死後、1926年にミラノ・スカラ座で行われた歌劇《トゥーランドット》の初演において、トスカニーニの指揮のもと、カラフ役を歌ったことで知られる。

1920年代のイタリアでは、第一次世界大戦前後よりヨーロッパへ流入したアルゼンチン・タンゴが、「異国的かつ都会的な音楽」として爆発的な流行を見せた。しかしイタリアにおけるタンゴは、次第にカンツォーネやサロン歌曲と融合し、より旋律的かつ感傷的な性格を帯びてゆく。本作もその延長線上に位置づけられる作品であり、ハバネラ風リズム、甘美な旋律、豊かなルバート感覚など、「踊るためのタンゴ」というより、「聴かせるためのタンゴ」として成立している点が興味深い。

作者のマンドリン作品としては他に「悲歌」「小ガヴォット」、石村隆行氏が在伊中に遺族から譲り受けた絶美な作品「神秘の時」などがある。またモルラッキ編の「セビリアの恋」「夢の微笑み」も美しい作品で、いずれ紹介したい。なお彼の美しい歌曲はNAXOSやSpotifyで聴く事が出来る。

編曲を行なったA.モルラッキは1872年生まれのマンドリニストで“Mandolinisti Milanesi ”楽団の監督としても手腕を発揮した。Il Plettro誌創刊号を飾ったのも彼のセレナテッラ「山吹く風」であった。他に吹奏楽や歌劇の作品も残されている。田中常彦はA.サルコリとの親交の中、ミラノで当時リコルディの社員であったモルラッキに出会った事を書き残している。

No.2422,  ポルカ「ブリオセッタ」作曲 : C.ムニエル
briosetta

出典 Vita Mandolinistica - Anno.9-N.2 (1909)

原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター

スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ

パート譜 同上

 

作者は1859年7月にナポリで生まれ、1911年2月フィレンツェに逝いた作曲家、マンドリン奏者。よく知られる通り、かのマルゲリータ王妃のマンドリンの師でもあり、楽器としての地位の芸術的向上に大きく寄与した。マルゲリータ王妃の名を関した楽団を率いてはマンドリン楽器による合奏を大いに啓蒙した。

幼くして両親を失ったため、母方の祖父にあたるパスクワーレ・ヴィナッチャの一家に育てられた。幼少期から文芸の分野にも関心を示し、16歳頃よりカルミネ・デ・ラウレンティスにマンドリンを師事した。また、サン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院に学び、ピアノ、和声、対位法を修めた。

作曲家としても多作で、作品番号を付されたものはOp.228まで確認されている。未出版作品や作品番号を持たない作品も多く、創作の全貌はいまだ明らかではないが、350点を超える作品を残したと考えられている。また、マンドリン演奏の可能性を多方面から追究した教則本や練習曲集は、教材としてのみならず音楽的にも価値が高い。こうした功績から「マンドリン音楽の父」と仰がれ、まさに斯界の至宝というべき存在である。

本作は、当時V.ビルリが主幹を務めていた『Vita Mandolinistica』誌の1909年2月号に掲載されたマンドリン四重奏曲で、作品番号を持たない作品のひとつである。

題名の “Briosetta” は辞書に載る一般的なイタリア語ではないが、「陽気な」「快活な」「生気に満ちた」を意味する brioso をもとに、愛称や縮小のニュアンスを添える指小辞 -etta を組み合わせた造語と考えられる。ただし、作者自身による題名の説明や曲目解説は残されておらず、その解釈は推測の域を出ない。

短いイントロダクションに続いて展開されるポルカは、親しみやすく平易な書法によるものだが、和声的にも美しく、充分に聴き映えがする。中間部のトリオにも、ムニエルらしい軽やかで洒落た味わいが感じられる。

楽譜そのものは古くから流通しているものの、不思議なほど演奏された話を聞かない。このような作品こそ、初心に立ち返って丁寧に作り込むことで、その素朴さの奥に隠れた魅力が浮かび上がってくるのではないだろうか。

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